流れ着いた先
The point where time drafted



















眼に映る様々なものが不自然に思える瞬間がある。
コンクリートでできた建物も、街路樹も、地球が作り出す山や海の曲線まで、多岐にわたって。本当はここにあるはずもないのに、何かのはずみで(もしかしたら間違って)表れてしまったような印象を受ける。そう思うと、わたし達が受け入れているこの世界の結果は、本物としての皮を被り人の無意識のなかに訪れ、一般に広がる「自然的」を形成しているのではないか。
不自然なものをつくろうと思った。
そのために写真を撮り、流木や石を貼り付けた。どちらも人の手(私)によってそれぞれの時間を止められてしまったもの。わざわざ写真の上に現物を載せたこれを、紛れもなく写真と私は言う。なぜなら、時を奪われてここに在るからだ。
誰もが何かしらの結果を求めて生活する、その過程で突如、いわば出会うことを予想しなかった、別の結果が現れたとする。複雑さから生まれたようにみえるであろうそれを、私たちは受け入れるしかないのか。はたまたすでに受け入れていたことに気付けているのだろうか。
ここまで流れ着き、私の手によって時間を止められた2つの要素を合わせて表出することでうまれる、結果の先はあるのだろうか。
Everyone lives for some kind of results every day. Another result that I did not expect may appear in the
process. (it may appear suddenly)
Can we accept a result as being born from complexity? In addition, can you notice that you have already
accepted yourself?
I took a photograph and put driftwood and a stone.
As for these, time has been stopped by the hand (I) of the person.
When "two elements which stopped time" come, what kind of scenery is the point where time drafted?